考え方

死ぬとはどういうこと?あなたの生きる意味が分かるかも!

人間は必ずいつか死を迎えます。
では、死ぬとはいったいどうなるのでしょうか?

身体が動かなくなること?、誰からも認識されなくなること?
そもそも死んだらどうなるのか。

死について、いろいろな疑問が思い浮かびあがると思います。

今回は、死について考えた哲学者を紹介しながら、考察していきます。

 

死ぬとどうなるのか?

死ぬとどうなるかを理屈で説明するなら、

・死ねば、すべてが失われる
・死後の世界を生きる

 この2つのケースしかありません。

前者であれば、死んだ後には何もない以上、死について考えること自体が不可能であり無意味になります。
後者であれば、死んだ世界があるとしても、生きている私たちが死んだ世界とコンタクトを取る手段がない以上、それを証明することはできません。

死を個人レベルで考えることは難しいかもしれません。
死者の埋葬をはじめたのが、今から約10万年前になります。
つまり、太古の昔から、死とは個人と残される周囲の人々がいてはじめて成立するものなのです。

死者が死後について考えることは何もない。
しかし、死者とその周囲の人の関係性は死後も残り続ける。
それは死んだ悲しみであったり、遺産相続であったりなどいろいろあります。

 

死について考えた3人の人物を紹介

ブッタの「死」

ブッタは、仏教の開祖であり、輪廻(死)からの解脱を説いた人物です。

古代のインドでは、万物は輪廻転生(何度も生まれ変わること)するという信仰があった。
人々はこの苦しい一生が永遠に繰り返されるという苦痛の中を生きていました。

そんな中、ブッタは人間が苦しむのは、執着心があるからだと考えた。
誰かを好きになるから別れるのが辛くなるし、死ぬことを恐れるから生きることに執着する。

つまり、ブッタは執着心を捨てればどんな苦しみからも解放されると説いた。
ブッタにとっての死は、生きることへの執着がなくなることだと考えた。

ソクラテスの「死」

ソクラテスは、ギリシャの哲学者であり、「無知の知」を唱えた人物です。

ソクラテスは「異教の神を信じ、若者を墜落させた」という罪状で死刑を命じられます。
死刑の瞬間は家族や友人はみな悲しんでいたが、ソクラテスは違った。

死の直前のソクラテスは「誰も死後を知らないのに、死を恐れるのは、賢くないのに賢人を気取ることと同じ。私は死について何も知らない」と述べている。
ソクラテスにとっての死は、「夢をひとつも見ない熟睡した夜のようなもの」で、不安に思わなくてもいいし、むしろ幸福なことだと考えた。

ハイデガーの「死」

ハイデガーは、1889年~1976年のドイツの哲学者です。

自分とは何かという問い正面から向き合うのをやめて、他の人々に倣って、不安から目をそらす生き方を「世人」(ダス・マン)と呼んだ。
人間が、本来の自分と向き合うためのきっかけとして、死を重視した。

自分の死は自分だけしか体験できないが、死を体験していることを誰かに伝えることはできない。
その意味で、自分の死は「不可能性の可能性」と言える。

ハイデガーにとっての死は、自分の死と向き合うことで、本来的な自分の姿が見え、自分のやるべきことが見いだせるのだと考えた。

 

生きている限り、常に死と隣合わせ

今回は死についていろいろと紹介しました。

人間の命ははかないもので、今日生きている人が明日死ぬかもしれないのがこの世界です。
人間は生きているのではなく、生かされているという解釈の方が正しいのかもしれません。

最近は新型コロナにより、多くの人が亡くなっています。
亡くなる人を前にすることで、自分が健康に生きていることの尊さを実感します。

また、自分のことだけを考えれば、死んだら無になる、死後の世界があると考えればいい。
しかし、周りの人にとっては、誰かが死ぬことは悲しいことです。

死とは自分だけで完結せず、周りにも影響を及ぼします。
だから、人は死を感じずにはいられないのかもしれません。

生きている限り、常に死は隣にいます。
でも、死を恐れる必要はありません。
死について考えることは、自分にとっての生きる意味を教えてくれます。

死と向き合いながら、今を精一杯生きて、自分が納得できる人生を歩みたいものです。